大丸の歴史

※加筆・修正していただける方いらっしゃいましたらお知らせください。
大丸自治会のHP制作に因み、大丸の歴史を紐解いてみようとあれこれ調べてみたのですが、ネット上にはもちろんセンター北の歴史博物館にもほとんど情報がありません。
そこで大丸の情報検索は諦めて、隣接する町名で調べてみるとあれこれヒントになる情報がでてきました。

まず大丸を知るのには、昔このエリア一帯の中心地であった川和町を知らねばなりません。※以下Wikiより引用

川和町は神奈川県都筑郡にかつて存在した自治体でもある。
旧川和町の沿革
1889年(明治22年)4月1日 – 町村制の施行により、川和村、佐江戸村、池辺村、東方村、折本村、大熊村、川向村および本郷村の一部が合併して都田村が発足。
1934年(昭和9年)4月1日 – 都田村が改称して川和村となる。
1935年(昭和10年)9月30日 – 川和村が町制施行して川和町となる。
1939年(昭和14年) 4月1日 – 横浜市に編入。 10月1日 – 旧川和町域が港北区の一部となる。
1977年(昭和52年) 川和高校の東側で縄文時代草創期の遺跡が発見される。古い地名にちなんで花見山遺跡と名付けられた。さらにその隣でけんか山遺跡も発見され、この地域に古くから人が住んでいたことが判明した。 かつて川和村は5つの村と境界を接しており、境界についての争論が後を絶たなかった。人々は喧嘩の絶えないその丘をけんか山と呼んだ。これがのちに見花山と書くようになり、読みも「みはなやま」と読まれるようになった。
1994年(平成6年)11月6日 – 港北区の再編により、旧川和町域が都筑区の一部となる。

現在の地図では不自然な直線境界で区切られていますが、大丸は見花山の一部で、さらに都筑群川和村の一部では?と推測できます。
今のホットなエリアはセンター南/北やららぽーとですが、当時の都筑群の中心地はダントツ川和町だったのですね。ところが明治41年の横浜線開通時、川和町を通らずに中山町を通るようになり、行政の施設も中山町へ移行します。なぜ横浜線が中山に行ってしまったのか?当時の川和町住民が反対したとか、鶴見川と恩田川に二つの鉄橋を架ける必要があり、それを避けたためだともいわれています。
※参考資料:川和の今と昔 「図説 都筑の歴史」

そして大丸という地名の由来ですが、今の都筑区加賀原に北条氏の家臣、大物武将の中田加賀守の城=池辺城がありその名残りという説があります。城郭の周りには「丸」が付く地名が多く残ります。もともと城の中核となるところを本丸(ほんまる)といい、その界隈に小丸、大丸、二の丸、三の丸、中丸などの城郭に関連する地名が残ります。確かに近くに丸のつく地名がいくつか残っています。川和富士界隈で発見された港北ニュータウン最大の縄文集落の名称も三の丸遺跡です。※ここでは300軒以上の住居跡が発見されました。
都筑区加賀原という地名も中田加賀守由来からでは、と推測ができます。

ただこの池辺城の説には無理もあります。センター南には茅ヶ崎城があり、江田には荏田城があり、小机に小机城があります。こちらは小規模ながら遺跡も情報も残っています。そして今現在の”丸”が付く地名、それぞれがかなり離れています。これが1つの城郭だったら相当大規模です。そんな大きな城郭があったなら、なぜ情報が残っていないのか?という疑問があります。また中田加賀守は今の日吉駅裏にある矢上城や小机城を本拠地にしていました。加賀原と加賀守の関係は偶然?
その後、いくら探しても中田加賀守の池辺城が存在したという情報がなく、大丸の地名の由来の正しいところは今のところわかりません。昔を知る方に話を伺って、それを繋いでいくしかなさそうです。皆さまのご協力をお願いします。史実を調べ残しましょう。

大丸の地名の歴史や昔の資料を調べていると、あれこれ変わっていくさまがわかります。地下鉄ブルー&グリーンライン計画時の駅名はこんなでした。鴨居とか中山とか小机とか、そのまんま地名を採用している横浜線と比べてずいぶんおしゃれです。

・大熊駅 →仲町台駅
・牛久保駅 →センター北駅
・茅ヶ崎駅 →センター南駅
・葛が谷駅 →都筑ふれあいの丘駅

ついでに、池辺町は”いけべちょう”ではなく、正式には”いこのべちょう”と読むことも初めて知りました。難読地名の一つだそうです。→Wiki 池辺町

まだ新しい都筑区、歴史情報が本当に少ないこと実感しました。区政25周年記念の「図説都筑の歴史」は、きっと画期的な本になるでしょう。

※大丸自治会の加藤さんから昔の大丸の写真をお借りしました。こちら
※「図説都筑の歴史」いただきました!大丸自治会館にあります。閲覧希望の方はお知らせください。